名水に潜むエキノコックス

2011年2月17日

○「吐き出せ!!」

「飲むな!!吐き出せ!!」
   Aの雷のような怒声に反射的に身体が反応した。Bは口に含んだ水を一気にベーッと吐き出す。

「もっと吐き出せ!何度も吐き出せ!」
   一滴でも残らぬように舌と歯で口中の水分をかき集め何度も吐き出す。
そしてAが差し出した2リットル水筒、それでもまだ足りぬとBのリュックサックからも取り出した水筒の水2リットルの合わせて約4リットルの水で何十回とうがいを繰り返した。

先輩Aの鬼のような形相、突き刺さるような鋭い視線に、Bは何事が起こったのかを問うことも許されず、水を含んでは吐くという苦行を延々と強いられた。

北海道東部に位置する秀麗な山の麓に数泊の山旅を終えた獣医師A先生と獣医学部2年生B君が降り立った。そこには湧き出る水の姿に半ばエロティシズムさえ覚える程の、初心者なら吸い寄せられて当然であろう小さな泉がひっそりとたたずんでいた。
なぜその銀色にも淡青色にも輝く甘露水を吐き出さなくてはならなかったのだろうか。

A先生:「B、そこ見てみろ、糞がある、キタキツネのだよ、それ」
            (我々は糞を見れば動物が分かります。)
B君:   「エッ?!あっホントだ、全く気付きませんでした」
A先生:「キツネの糞といえば何だ? 真っ先に何を思い浮かべる?」
B君:   「キツネの糞? んー、何かなあ」
A先生:「しようがないな。『キタキツネを見たらエキノコックスと思え』って言われるくら
               いだぞ。知っているだろう、エキノコックスは」
B君:   「ハァ、名前だけは」
A先生:「・・・・」
           「いいか、エキノコックス症という病気があるんだよ。こいつは人獣共通感染症で、
              エキノコックス症と診断した場合、医師にも獣医師にも届け出が義務付けられて
              いる程の恐ろしい病気なんだ」
B君:   「“医師に届け出義務”ということは人に対しても重要な病気なんですね」
A先生:「ヒトに対しても、じゃない、ヒトにとって重要なんだよ」

○エキノコックス症ってどんな病気ですか?

A先生:「エキノコックス症はエキノコックスという寄生虫が感染しておこる病気のことだが、
               まず原因である寄生虫エキノコックスの一生を押さえておこうか。
               卵・幼虫・成虫という順を踏むのは、およそ虫というモノには共通だな。成虫が寄生
               する相手を終宿主という、キタキツネが有名だイヌも終宿主だ。成虫はキタキツネな
               どの終宿主の腸管に住み着いて卵を産む。産み落とされた虫卵は糞に混じって体外に
               出される。
               糞は風化して見えなくなるが、どっこい卵は生き続ける、葉っぱに付着したり、
               水溜り・ぬかるみの中でな。 そこへエサを求めてやって来たエゾヤチネズミ、いろ
               いろ漁っているうちにエキノコックスの卵をも飲み込んでしまう。飲み込まれた虫
               卵は腸で孵化し幼虫となって主に肝臓に移って増殖するんだ」
B君:   「成虫にはならないのですか」
A先生:「いい質問、その通り。ネズミはエキノコックスの卵を幼虫に育てるだけ、成虫になる
               までの面倒は見ない。そこでネズミのような存在を中間宿主という。 次に、この幼
               虫を宿したネズミをキツネが食べる、幼虫は消化されることもなくキタキツネの小腸
               に取りつき、成虫に育つ、こういうサイクルを繰り返すわけだ」
B君:   「へぇー、寄生する相手を変える、同じ宿主の体内で一生を送ることがない、おもしろ
               いですね」
A先生:「でも厄介なんだよ、宿主が複数というのは。注意する事柄がふえるからね、キタキツ
               ネ・ネズミ・環境と」
B君:   「なるほど。ところで、キタキツネは病気にならないのですか」
A先生:「下痢するくらいかな。そうそう重症になることはない、宿主がやられちゃったら寄生
               する側もノンビリ生きていられないからね」
B君:   「確かにそうでしょうね。エキノコックスのライフサイクルは大体わかりました」

○ヒトではどう重要なんですか

A先生:「まず、ヒトはネズミと同じ中間宿主に位置する、これを銘記すること。」
B君:   「ということは虫卵で汚染された水などを飲む事で感染するんですね。それであんなシ
               ゴキのようなうがいをさせられたのか、でもあそこまでやらされるとは...」
A先生:「バカタレ!エキノコックスを甘く見るなよ。感染していない保証はないんだぞ!」
B君:   「はい、でも、そんなアブナイ病気なんですか...」
A先生:「ヒトは中間宿主だったな、ということは幼虫が肝臓に寄生するということだ。袋状、
               時にはソフトボール大の、癌のような病巣を作ってしまう。つまり生命を脅かすよ
               うな肝障害を起こすということだ。他に肺、腎臓、脳が冒されることもある。これ
               がエキノコックス症と呼ばれるものだ」
B君:   「ええっ、生命の危険もあるのですか! でも確実な検査法、安全な治療法はあるんで
               すよね?」
A先生:「いいか、世の中のあらゆる検査方法、あらゆる治療方法に100%の安全・確実はな
               いからな、これが大前提だ。
               検査方法は大まかに言えば血液検査と超音波やCT等の画像検査がある。北海道には
               3年に一度のエキノコックス検診というのもある。
               治療方法は初期なら駆虫薬を内服するが、画像診断でひっかかったら手術で病巣を
               切除するしかない。ヒトはネズミと違って潜伏期間が15~20年と長い。そのため
               に気付かずに手遅れになることもある、だから何度も検査が必要になるんだ」
B君:   「では、帰ったら早速受診しますが、不安です」
A先生:「それと、大事なことをもう一つ。エキノコックスは元々はキタキツネとネズミとの間
               で生きている、この関係にヒトは含まれていない。ヒトに飲み込まれるなんてこと
               は、エキノコックスにとっては甚だ迷惑な偶然で、本来の中間宿主であるネズミに侵
               入したかったはずなんだ。そのためにネズミとは異なったオカシな生態、例えば幼虫
               の発育が非常に遅い、即ち潜伏期間がやたら長い等々、を示すのかもしれないな。逆
               に希望的に考えれば、虫卵を摂取しても免疫の関係等で病巣が形成されなかったり、
               虫の発育が途中で止まったりして治ってしまうこともありうる。つまり虫卵を摂取し
               たからといって必ずしもエキノコックス症を発症するわけではないということだ。
               まあ、若くて体力も十分、免疫もしっかりしている。それに、あれだけウガイをした
               のだから、悲観的にならずに、しかし甘く見ないで検診を続けよう」
B君:   「わかりました、そうします。そしてもっと勉強します」

○"エキノコックスは北海道限定" は一昔前の話?

さて、今や白髪が目立つ年頃となったB君、その後どうなったのでしょう。

下山早々駆虫薬を約一ヶ月飲み続け、3年に1回のエキノコックス検診を5回受診し、20年目には念には念を入れて超音波+CT検査を受け、25年経った現在、中高年向け人間ドックの画像検査では異常なしとの診断を受けました。しかし彼の不安はなくなったわけではありません。それはB君自身の健康への不安だけではなく、エキノコックスが本州に生息域を拡大する不安です。従来、エキノコックスは北海道でしか定着していないとされていましたが、少数ながら本州での感染事例が報告されています。2005年には当埼玉県内の野犬からエキノコックス虫卵が検出されたくらいです。
本州でエキノコックスが見つかる、原因は余りに明白でありましょう。『北海道から持ち込まれた』か『北海道に行って持ち帰った』かのいずれかです。

札幌では室内犬からエキノコックス虫卵が検出された例があります。このような場合はイヌからヒトへの感染がおこる可能性があります。
このイヌは間違いなく中間宿主のネズミを捕食したはずで、イヌは終宿主ですからエキノコックスの虫卵を便に排出します。イヌの体表には乾燥して粉状になった便がいくらかは存在しています=これにはエキノコックスの虫卵が付着しています。この虫卵がイヌに接触したヒトの手などについて口に運ばれヒトへの感染がおこります。ヒトは中間宿主ですから孵化した幼虫は肝臓で増殖し、何年か何十年か後に重い肝臓障害を引き起こします。このようにエキノコックスはイヌからヒトへ感染することもあります。
一方、イヌは終宿主ですからエキノコックスの成虫は小腸に寄生します。下痢はしても肝臓は冒されません。検便で虫卵を見つけることもできますし、虫下しで安全に駆虫する事もできます。ヒトとは随分違います。

エキノコックス、本州ではまだ“知る人ぞ知る”数少ない病気です。しかし忍び寄るその足音は不気味です。
山菜取りの人が増えました、山麓に湧き水を求める人も多く見かけます。路肩に停る車に地元ナンバーはごく少数、エッ、そんな遠くから、というナンバーが多くを占めています。
イヌをわざわざ遠方の山野に連れて行って放す行為が流行っています。でもちょっと考えてみてください。
そこにエキノコックスはいませんか?

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